あの人に会うことはできないかと、今日もまたここに来てしまった。しかし、ここはいつも通り誰もいなかった。喫茶店『ハミング・バード』の一番奥にある日当たりの良い窓際の席、それがこの場所だ。マスターの趣味か店内にはいつもジャズが心地よく響いていた。大声を出して話をしたりするような人達はこの店には来ない。いつも静かでゆっくりとすることのできる私のお気に入りの場所だ。
ところが先日その誰もいないはずの場所に一人の老婦人が座っていたのだった。
私がいつものようにハミング・バードに入り、お気に入りの場所までいくと、そこには一人の老婦人が座っていた。私が座っているときと同じように、ホットコーヒーを注文し、小説を広げていた。カウンターに目をやると、マスターが身振りですまないと言っている。最近ではこの場所は私の指定席となっているのだけれど、今日は先客がいるから他の席で我慢して欲しいということなのだろう。先客がいるのなら仕方がない、そう思い他の席を探そうとした。そのとき後ろから、
「どうぞこちらにきてお座りなさいな」
と、優しい声が聞こえた。振り返ってみると、私のお気に入りの場所に座っている老婦人が言ったのだと分かった。今彼女のいる席が私のいつも座る場所だと気付いたのか、
「ごめんなさいね。でも、私もこの席に座ってゆっくりしたかったのよ。」
と続けた。断る理由もなかったので、私は彼女の勧めにしたがって、彼女と私は同じテーブルに着いた。
同じテーブルに着いてからは、二人とも持ってきていた本を読むばかりで、最初は何も話などしなかった。彼女は熱心に持参した本を読んでいた。私はというと優しく温かい雰囲気の人とはいえ、見ず知らずの人との相席に戸惑いを感じていた。読んでいる短編小説も、字面を目で追っているだけで、内容なんて少しも頭に入ってこなかった。
断るべき理由がなかったから相席させてもらうことにしたのだが、彼女は迷惑に感じているのではないだろうか。そんな考えが頭から離れない。髪は半分以上が白くなってしまってはいるが、彼女の持つ雰囲気があまり年を感じさせない。訛りのない流暢な話し方、資産家の妻といったところだろうか。そんなことを考えながら、自分でも気付かぬうちに、私は彼女の顔をじっと見てしまっていたようだ。その視線に気付いたのか彼女は本から目を上げてにっこり微笑んだ。
「あなたも気になっていたのかしら。私もそうよ。初めて会った人と、こんな風に同じ席でコーヒーを飲みながら、お互い口も聞かないまま本を読みつづけるなんて私にはできそうにもないわ。」
そう笑いながら話す姿は、少女そのものだった。
「あなたにとっては、私みたいなおばあさんの相手をするなんてたいくつなことなのでしょうけど、良かったら付き合って下さらない。」
「退屈だなんて・・・。」
そんなことはない、そう言おうとしたのだけど、最後の方はもごもごと口の中で言葉とも思えないものを呟いただけだった。それでも伝えようとしたことは分かったらしく、またあのふわりとした笑顔で応えてくれた。
「最近、話し相手がいなくて寂しかったのよ。あなたが聞いてくれるというのなら、話させてもらおうかしら。」
そう話しながら彼女は開いていた本を閉じた。
「今時の若い方って、いつもとても急いでいる気がするわ。どうしてそんなに焦るのかしら。私も若い頃は生きることに急いでいた気がする。でも、今の人達のように焦ったりしなかった。私達は生き急いでいたという感じだったわ。けれど、今は死に急いでいるという気がするの。時代がそういうものだったからかしら。これからを生きていく人達は大変なのでしょうね。私のような年の者には付いて行けないほど、毎日が目まぐるしく過ぎ去っている。いろいろなものがここ数十年で大きく変わってしまった。私の住んでいた世界とはまったく違うものになってしまった。でも、この"ハミング・バード"だけは変わらなかった。この店のここの席は私の指定席だったのよ。一番奥にある日当たりのいいこの席がね。マスターは私が常連だった頃とは変わってしまったけれど、店内に流れるジャズや静かな雰囲気は昔と同じ。でも、今この席はあなたの指定席になっているのね。あなたを見ていると昔の自分を思い出すわ。同年代の子は外でわいわい騒いでいるのに、私はいつもこの場所で一人本を読んでいた。別に寂しいわけじゃないのだけど、いつもどこか物足りないような釈然としない思いがあったわ。それが今ではそれは当たり前のことなんだって分かったわ。いつも満たされていると感じている人って、薄っぺらいだけじゃないの。いろいろなことを考えて悩むのが普通じゃない。もっと気楽になさいよ。あなたが憂いでいるように見えたから。と言っても、年を重ねたおばあさんの単なる勘なのだけど・・・。どうも話し過ぎてしまったようね。これ以上だとあなたもお疲れになるでしょうから、私はこの辺で失礼させて頂くわね。」
そう言って彼女は席を立って行った。彼女は子守唄でも歌うように話していた。彼女が話している間、私は口を挟むことができなかった。彼女の言う言葉には、私に口を挟ませないほどの重みがあったから。時の流れは多くのものを変えてしまうという。彼女は昔の彼女は私に似ていたのだと言った。私が彼女の年になったら、今のように何もかもを温かく包み込むような話し方ができるのだろうか。私のような人間が彼女のようになるとはとても考えられない。時が経つに連れて多くのものが変わってしまったと彼女は言ったけれど、一番変わったのは彼女自身ではないのだろうか。私くらいの年から今の彼女になるまでに、どのようなことがあったのか、何が彼女を変えるに至ったのか。私は悩んでいた。自分がいつまでたっても少しも変われないでいることに。
あれ以来、ここに来てはマスターに彼女が来ていないか何度も訊いた。けれど、彼女は一度も現れなかったという。多くの人は年をとることを嫌がるけれど、彼女を見ると年をとるのも悪くないと思うようになった。年をとると今まで自分が悩んできた理由がわかるような気がしたから。もう一度彼女と話がしたいと思った。
チリンチリン
店にお客が入ってきたときに鳴る鈴の音だ。ふと、出入り口に目をやると、先日ここで話したあの老婦人が立っていたのだった。
(完)