お酒の魔法
えむ
「もう、いいわ」
さらりと出た言葉に自分でも少し驚いてる。
貴方は渋い顔をしていた。
こんな時なのに笑顔すら見せない、正直者。
私は赤いワインの入ったグラスを手に取った。
「ごめん」その一言を置いて、貴方は私の前から消えた。
三年間。私達は一緒だった。時間は怖いもの、すれ違いがこんなにも私と貴方の距離を開いていたなんて。
貴方の笑顔を最近見なくなっていたことさえ気づかなかったなんて。
私は……
「ばっきゃろうっ、ふざけんなっての!何が君の他に好きな娘が出来ただっ、結局あたしが先に出世したのが気にくわねんだろうがっ、 …っっくっ、どこがいいんだあんな女っ、ねえおっちゃんもそう思うでしょ」
「みっちゃん、飲みすぎだよ、ここらでやめときな」
「いーーや、まだそんなに飲んでないわよ、まだいける。ねえ?」
この酒豪…いやこの女性柏木三咲はついさきほど男に振られたばかりである。
ちなみにここは彼女のいきつけの居酒屋『やじ馬』。
カウンターと四人掛けのテーブルが三組と小さな構えではあるが、連日顧客達が店をにぎわせている。
そのカウンターの中央の席、そこが柏木三咲の特等席であった。
そしてさっきから三咲がからんでいるのはこの店の主、五十路を過ぎた気前のいいおやじである。
おやじはナベのものをつつきながら、彼女の両脇のなじみ客と一緒に肩をすくめた。
酔った三咲はかかわるとろくなことがない。
ここは適当に飲ませておいた方が良い。
つまり触らぬ神に祟りなしである。
しかし、今日の三咲は荒れに荒れていた。
日本酒五合、ビールが五本。ペースもはやけりゃ飲む量もかなりなもの。そのうえ絡みも大変なものだった。
『失恋した』と少しでも同情したのが良くなかったのだろう。
「うえ〜ん、なんであたしってば男運ないのかなぁぁぁ。こぉーんなにかわいいのにぃ」
「そりゃその酒癖のせ…いやいやきっと男に見る目がなかったんだよ、なあおやじ」
「おう、そうともさ。なあ、みっちゃん。みっちゃん位べっぴんさんならもっといい男が出てくるよ、な?」
「うー…ホントォ、もーみんなありがとぉ慰めてくれてんのねえ。よしっあたし頑張る。あんな野郎なんかよりもっといい男捕まえちゃる!そうと決まったらこうしていられないわっ帰ってパックしなくちゃ。おっちゃんお勘定」
「も、もうお帰りかい?みっちゃん、気をつけて帰るんだよ」
「うんありがと、おじちゃん達もあたしがいなくなって寂しいだろけど、ゆっくりしていきなよぉじゃーね」
そういって三咲はのれんをわけて店を後にした。
「三咲ちゃんって変わり身はええなあ」
「まあいいじゃねえか、これでゆっくり酒が飲める」
こうして『やじ馬』は嵐のあとのような静けさになっていった。
所かわって二丁目三番地。
そう記してある青いプレートがかかった一本の電信柱。この隅に一人うずくまっているものが居た。
「ほげえぇえっうええええぇぇぇっ」
しかも吐きもどし真っ最中。
夜目ではわからないであろうが、ブルーグレーの高めのスーツに身をくるんだこの男、滝本尊。一流会社に勤めるエリートである。
何故彼がこのような状況になっているのかというと、それは三時間ほど前まで遡る。
滝本は見目はいい方で、性格ももの静かであったので、彼の先輩達は彼に合コン参加を何度も頼んだのだが、彼はかたくなに断っていた。意地になった先輩達はどうにかして彼を飲みに連れ出そうとある計画をしたのだ。
作戦は一人がえらく思いつめた顔をして滝本に近づき、相談を持ちかけ、外で話をしておびき出すというもの。
一対一ならたとえそれが飲み屋であってもついてくるはず。というものである。
これが一流会社のエリートがすることかどうかは置いておくことにして、みごと滝本は彼らの作戦に引っ掛かったのである。
こうして酒を飲まされ、ふらふらになって抜け出してきたものの、彼はここでリバースという結果にあいなったのである。
飲まされたと言っても、ビール一杯なのだが、彼はあまりというよりはほとんど酒の飲めない人間で、ちょっと酒が入っただけでも吐いてしまうのだ。つまり根っからの下戸なのだ。
「くそう…なんで俺がこんな目に…もう二度と相談なんか聞いてやるものか…」
肩で息をしながら滝本はその整った眉を歪ませた。
その時である。
彼の広い背中が急に重くなった。
「なっ…」
「あらあ、ごめんなさい、ちょっとつまづいちゃった」
「ごめんなさいって言うんならさっさとどいてくれないか」
「何よー、無愛想ね、ちょっと顔がいいからって」
「そういう問題か…げほっ」
「ちょっと、貴方大丈夫?」
「気遣ってくれるのはありがたいが、今は…げええっ」
先ほどの衝撃のせいかまたもリバース。
女の前でこのような失態を見せるはめになろうとは、と滝本は泣きそうになった。
すると突然背中に温かいものが触れた。
滝本はゆっくりと顔を上げた。温かいものは先ほどの女の手だった。優しく彼の背中をさすっている。
「な…なにしてんだ、あんた」
「見てわかんないの、ばっかねえ。貴方の背中さすってあげてんのよ」
「……」
「初めて飲んだの?かなりひどそうね。あたしも何度か経験あるから。ま、困った時はお互いさまってねえ。あははは。貴方ちょっと聞いてくれる?あたしねえ、今日彼氏に振られたんだ。他に好きな子出来たんだって。勝手よね、『君の仕事をしている姿が好きだ』とか 言ってたくせに、いざあたしの仕事が成功して彼より出世してしまったら、『やっぱりかわいい女がいい』っていうのよ。あたしだって別に好きでこうなったんじゃないわよ。
ねえ貴方もそうなの?やっぱり仕事できる女はかわいくない?」
「さあ、…別にこれといっては」
「あいまいねえ」
「……」
「まあいいわ。あんなプライドの塊男、あほ娘にくれてやる。そしてあたしはちょーかっこいい男をつかまえて見せるわ!このあたしの美貌でねーきゃははは」
何だこの女…そう思いながらも滝本は落ち着いていくのがわかった。この女の手が妙に暖かくて気持ちいい。
しばらくして滝本の背中から手が離れた。
「ねえ貴方立てる?ここからちょっと行ったところに公園があるから、そこまで行こう」
「え…」
「すこし休んだ方がいいわよ、ベンチがあるから横になれるし」
「…いいよ、あんたも帰ったほうがいい。もう遅い。今まで悪かったな。ありがとう。家はすぐそこだしもう少ししたら大丈夫だから」
「そお?あたしのことなんか気にしなくても良かったのに。じゃあ気をつけるのよ」
そう言って女は滝本の頬に唇を当てた。
「◎☆◇!なっ…」
「だってアナタ男前だし、介抱してあげたお駄賃よ。いいじゃないほっぺぐらい。××じゃあるまいし。じゃまた会えたらあいましょ」
女はにっこり笑って手を上げた。
とんでもない日だ。滝本は頬を抑えながら、ため息をついた。
闇に消えて行く栗毛のあの女の後ろ姿を見つめながら、滝本は「名前きいときゃ良かった」と呟いた。
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