「う〜頭が痛い…」
 「三咲先輩また飲みすぎたんですかぁ、もー先輩も年なんだから少しは自重したほうがいいですよ」
 「おだまり」
 三咲は後輩のアキコを睨みながらパンシロン(頭痛薬)の袋を破いた。
 昨日三年付き合った彼氏と別れた三咲は、いきつけの店でかなりの酒を飲んだ。おかげで肌は荒れてるわ、顔はむくんでるわで大変だった。
 だけどおかしなことに泣いた形跡もなかった。おかげで目がはれることはなかったが。
 あれだけ悲しいと思っていたのに、涙が出ないなんて。
 三咲は彼と別れる時、気丈にいつものように振る舞った。しかし心の中では、複雑な感情が入り乱れていた。
 彼の裏切りと心変わりに対する、悔しさ、せつなさ、腹立たしさ、悲しみ…
 その中で一番は何だったんだろう。
 やはり悲しみだったんだろうか。
 三咲はデスクのパソコン画面に目を向けた。
「うだうだ考えてても仕方ないか。さて仕事仕事」
 …でも昨日の記憶がないのよね。『やじ馬』を出てからなにしてたのかしら。今日おっちゃんに聞くかな。
 三咲の手は完全に『仕事をする』ことをやめていた。



 「すまん、滝本!だってしょうがなかったんだよ。お前がいくら誘っても来ないから、ああいう手段しかなかったんだよ」
 滝本はまだ眉を寄せていた。
 別にだまされたことを根に持っているわけではない。昨日の不思議な女のことを考えていた。
 あんな状態の自分に背中をさすってくれたり、彼に振られたことなどを語ったり、あげくに突然キス(と言ってもほっぺ)をした彼女。
 栗毛色の髪をなびかせ、夜の闇に消えたあの後ろ姿が頭から離れない。
 これは何なんだろうか。もしかして恋…
 いやいや、きっとあの酔いっぷりが印象的なだけだ。
 滝本は頭を振った。そしてふかくため息をついた。
 「やっぱり名前を聞くべきだった」
 「はあ?なんだ滝本」
 「いえいえ、こっちの話です」
 にっこりと滝本はほほ笑んだ。



 彼に振られてから三ヶ月。今だ新しい男は見つからない。三咲は背もたれにめいっぱい寄りかかりながら、ため息をついた。
 「三咲先輩、今日暇でしょー?」
 「おーお、暇ですとも」
 「先輩今日合コンあるんですけど、ちょっと顔出して見ません?」
 「何?人数足りないの?」
 「そーなんです、結構いいとこなのに集まり悪くて」
 「いーよ、どうせ暇だし、ね」
 「あ、でも、あんまり飲まないでくださいよ」
 「…酒乱だって言うんでしょ。わかってるわよ」
 「じゃ、また後で」
 三咲はシャーペンを回しながら、またため息をついた。
 あれからむちゃ飲みはしなくなった。忙しくてそんな暇もなかったせいもある。だけど実際頭の片隅に何かひっかかるものがあった。
 「なんなんだろ…なーんかひっかかるのよね」
 そう呟いた三咲ははっと我に返った。泳いでいた目線が課長と合ってしまったからだ。三咲は急いでパソコンに目を向けた。



 定時のチャイムが鳴って、三咲はロッカーへ向かった。そこが待ち合わせの場所。人数がそろうと、合コンの相手の待つ飲み屋へ向かった。
 合コンの相手は一流企業のエリート君達。
 確かに若いし、身なりもよい。顔もまあまあ。
 一人だけ、比較的かっこいい部類に入る男がいた。
 まあ、ほかの子の目の色が違うわ。
 三咲自身はかなり冷めていた。いまさら合コンぐらいで熱くなる年でもない。しかし三咲はその男を見たことがあるような気がした。三咲は肩をすくめて首を振った。
 自分の知り合いにこんなエリートはいないからだ。
 みんな適当な席に座り、まず一杯目の飲み物を注文する。三咲は、一番端に座り、軽目のカクテルを頼んだ。
 「えー、お酒飲まないんですかぁ」
 「そ、こいつこんな顔して下戸なんだよ」
 「失礼なこと言わないでくださいよ」
 「きゃあ、かわいいですねえ」
 後輩のアキコの声が1オクターブ高い。
 男のくせに酒も飲めんのか。三咲は彼を一瞥した。その時ちょうど彼と目が合った。
 にっこり。酒も飲めない話題の彼は三咲にほほ笑んだ。
 何かしら…今のほほ笑みは。
 まさか私に一目ぼれ…ふっ…まさかね。いくら私がそこいらの女よりかわいくたって、そうそうそんなことがあるわけない。ただの愛想笑いか。
 三咲はグラスを手に取った。
 いくらか時間が過ぎ、みんな二次会のカラオケへ繰り出そうという話になった。みんなかなり出来上がりつつある。酔っ払っているならともかくこんなしらふで、酔っ払いの相手なんか出来るわけがない。三咲は笑顔でここでわかれると切り出した。
 するとあのお酒を飲まない彼も用事があると言ってカラオケに参加しなかった。
 アキコが最後まで粘っていたが、結局三咲と彼の二人だけになった。
 「じゃあ、私こっちだから」
 三咲は笑って背を向けようとした。
 「久しぶり…って言っても覚えてないよな」
 「は…?」
 彼はさらさらの頭に手をやった。
 「あれから三ヶ月も経つし。もう忘れてるかもしれないけど」
 「あの…」
 「でもやっぱり貴女と合コンって縁があるかもしれない。また会えるなんて思いもしなかったよ」
 「あの…私、貴方とどこかでお会いしましたっけ」
 三咲は恐る恐る聞いた。
 「あ…参ったな、全然覚えてないのか。無理もないな。あんだけ酔ってたんじゃあな。俺自身あんまり思い出したくないし…」
 「はあ…」
 「じゃあ、家の近くまで送るよ。ここらへんは物騒だし。どうかな」
 明らかに残念そう。三咲は彼がちょっぴりかわいそうになった。覚えてないっていうことは、多分あのむちゃ飲みをした日のことだろうか。
 三咲は彼を見上げた。なんとなくひっかかる気もするがよく思い出せない。でも、ちょっとこの三ヶ月、頭の中でもやもやしていたものが、ふっきれそうな、彼の笑顔をもう少し見ていたい気もした。
 「ま…、とりあえず、送ってもらおうかな」
 彼の顔に笑みが戻った。
 「とりあえず、聞きたい事があるんだけど」
 「なにかしら」
 「貴女の名前を教えて欲しいな」
 「…柏木三咲。…貴方は?」
 「滝本尊。迷惑かも知れませんがまた会ってくれますか」
 三咲は目を見開いた。だが、すぐほほえんだ。
 「ええ、喜んで」



 居酒屋『やじ馬』。こじんまりした店のカウンターの中央の席。
 今、その席は空いている。


終わり


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