影和邇
                        辻 李

 いいかいよくお聞き
 月の丸い晩には
 決して海に出るんじゃないよ
 海に出たらば
 影和邇が出てきて
 お前の影を喰ってしまうからね


 その店は、大通りを一本はずれた商店街の外れにたっていた。
 私は最初、ただなんとなくその店の前を通り過ぎるだけのつもりで歩いていたのだが、ふとその店の看板が目にとまり、思わず立ち止まってしまったのだ。
 随分と年代物なのだろう、黒ずんで古くなってしまった木製の看板には、雨曝しになってぼやけてしまった『海の家』という言葉が、懐かしくも右から左に向けて書いてあった。
 海の家
 なんとも懐かしい響きである。
 私は思わず、小学生の頃夏休みに遊びに行った田舎の祖母の家と、その時泳ぎに行った海を思い出していた。
 まだ日本が高度成長期の真っ只中にあった頃だった。当時私は夏休みになるといつも祖母の家に預けられ、夏休みの宿題を朝のうちに一定量片付けてから、昼前になると必ず海に泳ぎに行っていた。
  
 あの頃の海はまだ、今よりも青く澄んでいて、銛一本で何匹もの魚が取れた。それを昼のご飯にするために、海辺にある、文字通りの『海の家』に魚をもっていっては焼いてもらった。海水で味のついた塩辛い魚の味と、夏の日差しに白く反射する砂浜は、今でも私の脳裏に焼き付いている。中学生になってから祖母が死んで、田舎の家も売り払ってしまってからは、もう海に出かけることもなくなってしまったのだけれど。
 古き良き時代の思い出に浸りつつ、私はこの店を営んでいる人物に会いたいと思い始めていた。
 店の中は外から見る限り、番台とそれに取り付けてある呼び鈴のほかは何も無い。店の客が座るためだろうか、番台の横には畳敷きの、人が座るには丁度良い座敷のようなものがある。漆喰の壁には古めかしい掛け時計が時を刻んでいる。一見して、どこかの駄菓子屋から菓子類を置く場所だけをすっぽり抜き取ったかのような店構えである。だが、留守にしているのだろうか、その店の中に人気は無い。
 私は、その店がどんな店なのかも知らないでおきながら、興味本位で番台の呼び鈴を鳴らしていた。
 りん、と、可愛らしい音がする。
「はい」
と、店の奥から人の声がした。どうやら、普段は店の奥に引っ込んでいて、呼び鈴を鳴らすと番台のほうへ出てくるようにしてあるらしい。随分と低い声だったが、どんな人間がこの店の主人なのだろうか。
 やがて、数秒の間を置いてから、番台へ一人の人間が姿を現した。
「どのようなご用件で?」
 澱みなく聞いてくるその人物に、私はしばらくの間言葉を失っていた。
 私はてっきり、年老いた人間かと思っていたのだが、思い切り予想に逆らって、そこに出て来たのは若い男だった。
 年の頃は三十路手前か、恐らく、私よりも一回りほど年下くらいだろう。私は今年四十歳だから、丁度この男の兄にも父にも当たらない世代になるかもしれない。
「お客様?」
 そこでようやく、私は目の前の番台についた男が再三私に話し掛けていることに気付いた。迂闊な事だ。私は心の中でそっと舌を出す。
「ああ、いや、実は看板を見てね、『海の家』だなんてどんな店なんだろうと思ったんだ。だってここは街の真中で、近くに海とかもないだろう?だから、その・・・」
 言葉に詰まってしまった。私の前で、若い男が苦笑するのが分かる。
「じゃあ、偶然覗かれたのですね。では、こちらにいらしたのは旅行か何かですか」
 首を傾げた拍子に、男の掛けた片眼鏡がきらりと光る。口振りからして、今まで店に来た客の顔はみんな覚えているようだ。商売人の鑑というやつだろうか。
「旅行、じゃないんだ。実はつい昨日こっちに引っ越してきてね。それでこの辺りを散歩していたところなんだよ」
「引越しですか?」
「そう、ぼくの勤めている会社は夏場に転勤の季節があってね、それで、この街にある支店にこの度転勤ということになったんだ」
 私の言葉に、男はそれはそれはといって頷くと、番台の下からなにやら紙切れのようなものを取り出して、それを私に手渡した。
「では、これからご近所ということになりますね。どうぞ、これは当店のチラシです。ご用向きの際は是非ともお電話ください」
 渡されたチラシには、『万屋海の家』と明朝体の黒文字がかかれ、『頼まれごと引き受けます』との文句と共にこの店の電話番号が記入されていた。
「私の名前は守谷竜堂。この店の店主です。以後、お見知り置きを」
 男は丁寧に礼をし、私は、はあそうですか、と返事をし、そうして店を後にした。
 それが、私と『海の家』との付き合いの始まりである。


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