「一条さん、一杯飲みに行きませんか?」
 会社の若い同僚が、くいっと猪口をあおる仕種と共に掛けてくれた声を、私は軽く断った。
「悪いね、酒は、ちょっと」
「飲めないんですか?」
「まあ、そんなもんかな。医者に止められててね」
 苦笑いと共にそう言うと、彼は残念そうに笑って、また別の同僚を誘いに行く。
 私はその後姿を見送りながら、軽い嘘をついた後の罪悪感に、少しだけ胸を痛める。
 確かに酒は止められているのだが、止めているのは医者ではない。中学生の時に死んだ祖母に、私は昔から酒だけは飲むなと言いつけられているのだ。
「良いかい、お前は酒を飲んじゃいけないよ。例えどんなに怖い相手でも、酒を飲むことだけは断らなくちゃいけない。結婚して、女房が酒を飲む女でも、お前は一緒に飲んじゃいけない。勿論、お前の子供にも、酒を飲ませるんじゃない。良いね、後生だから、ばあちゃんの言うことを聞いておくれよ」
 祖母は何度も私にそう言い聞かせた。それを最後に聞いたのは十二歳のとき、もう三十年ちかく前のことだ。けれども、私は未だに、一度も酒を口にしたことがない。何故祖母が私にそう言い聞かせてきたのは分からないが、恐らく父も、子供の頃そう言い聞かされて育ったのではないだろうか。
 私の家族で酒を飲む人間は一人としていない。
 酒を飲みに行く同僚達と別れてから、私は一人あの商店街に向かった。
 一週間程前、初めてこの店を訪れてから、何度も行こう行こうとは思っていたのだが、なかなか足が向かず、今日はようやく昼間のうちに土産を買って訪れる準備をすることが出来たのである。
 既に時計は夜の七時に近い。商店街の店も殆ど店じまいを済ませた後で、私は、もしかしたらあの店もしまっているかもしれないという不安にかられる。店が閉まっていたら、折角の土産が駄目になる。何故それを持ってこようと思ったのかは分からないが、私は昼間見かけた生菓子を持ってきていた。
 店の前まできた時、丁度番台の奥へ店の前に出していた立て看板をしまいこんでいた店主が、私に気付いたのかひょいと顔を上げる。 この前していたのと同じ片眼鏡をかけた垂れ目の若い男が、私の顔を見て人のいい笑顔を浮かべた。
「こんばんは」
 番台に、この前と同じ格好でいる彼に、私は土産を差し出す。
「この間は用もないのにお邪魔してすまなかったね。今日はその時のお詫びも兼ねて、土産を持ってきたんだけど、食べるかい?」
 私の問いかけに、守谷はにっこりと笑って頷くと、生菓子を覗き込んで嬉しそうな顔になる。後で聞いた話なのだが、彼は甘いものに目がないらしい。
「もしかして、閉店時間だったのかな?」
「いえ、今日はもうお客さんも来ないだろうと思って、早めに店じまいしていたんですよ。いつもは結構遅くまで開いてますので、ご心配なく」
「そうか、良かった」
 それから私と守谷は、色々と雑談をした。この前も特に用事は無かったし、今日も土産を持ってきたという以外にこれといった用事も無かったのだが、守谷は私の雑談に快く付き合ってくれた。
「そういえばまだ、ぼくの名前も言ってなかったね」
 私は重大なことに気付いて、スーツの胸ポケットに常備している名刺を取り出すと、年若い店主に渡す。それを受け取った守谷は、片眼鏡のずれを直しながら名刺にかかれた字を眺める。
「一条・・・こうじ・・・さんとお読みすればよろしいんですか?」
 彼はおそらく、私の名前をそのまま音読みしてしまったようだ。
「いや、その名前はね、『みはる』と読んでくれないかな。よく間違えられるんだ」
 苦笑いを浮かべながら私がそういうと、守谷はすまなさそうに頭を下げる。
「申し訳ない。みはるさん・・・とお読みするんですね」
「まあね。でも、こうじって名前の方が読みとしては自然だからね」
 変な名前だろ?と尋ねる私に、守谷は首を横に振って笑う。
「とんでもない。良い名前ですよ」
「有り難う。祖母につけてもらったものなんだ」
「へえ・・・」
 その後、雑談は午後八時近くまで続き、私は、もしかしたらこれからも立ち寄るかもしれないけど構わないかな、と帰り際に尋ねた。
 守谷は、どうぞ御遠慮なく、と快諾してくれた。
 店を出て行く間際、守谷は私に一つだけ不思議な質問をした。
「もしかして一条さんは、出雲地方のご出身ではありませんか?」
 私が、それはわからないと答えると、彼は首を傾げて、一瞬だが眉をひそめるような顔になる。その表情は、私が理由を尋ねる前に消え、元の人の良さそうな笑顔によって掻き消される。
「そうですか、では構いません」
 最後に守谷は、お気をつけてと付け加えて私を送り出してくれた。
 私は家路につきながら、何故あの時彼が私の出身地を尋ねることを思いついたのかが気になって仕様がなかった。
 私は生まれも育ちも東京で、両親の出身地は、一度も尋ねたことがなかったから良く分からない。田舎の祖母の家は瀬戸内にあったからそこが出身地なのかと思っていたのだが、実は違うことが祖母の死後明らかになった。祖母の家は戦後彼女が買い取ったもので、もともとの出身地、つまり祖母の本籍が置かれている場所は不明だったのである。
 私の祖母の出身地は、私の父、つまり彼女の息子すらも知らなかった。
 何故なのかは、未だに分からないことなのだが。
 家の明かりが見えてきた所で、私はその考えを中断することにした。
 どの道考えつづけても仕方のないことだからである。
 そうして私は、家の玄関に辿り着く頃には、それを考えていたことさえ忘れ去っていたのだ。
 


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