Across
                        S.S



 春……花が咲いていた。
 きれいでとても優しくて、暖かい空が微笑んでいた。


 夏……蝉が鳴いていた。
 暑いのは好きじゃないけれど、思い出は沢山あった。


 秋……葉が舞い落ちていた。
 赤いイメージはいつも物憂げな色を纏っていた。


 冬……白。
 記憶も想いも白。……忘れていた。



 そして季節は一巡した。
 春は悲しく無意味に過ぎて、陰鬱な夏が歩いてくる。
 無表情な夏が立ち去った後には、空っぽの秋がまた目の前にいた。
『冬はすぐそこにある……』
 秋は脅迫する。
 早足で笑いながら遠ざかっていく秋は嫌いになってしまった。
 その後には、何もない時間がやってくるから。意味もなく存在するだけの『白』が近づいてくるから……
 どんなに願っても、どんなに叫んでも……静かにあいつは歩いてくるから……
 でも、逃げ出せなかった。
 それだけの勇気をいつまでも持てないでいたから……


 いつもどおりの雑踏。
 踏み誤らないように歩いていくだけの道があった。
 いつからだろう、こうして俯いて歩くようになったのは。大袈裟な話、今日までの間に空の色すらも忘れてしまったような気がする。
 最近買った安物のジャケットは風通しが良い。自分の見立ての悪さにも問題はあるし、こんなに薄い生地で冬物だという店にも問題はあるだろう。
 それは、どうでもいいことだ。
 信号が赤に変わる。人の動きが止まって初めて、石崎昌人という若者は前を見た。
うんざりするほどの人が群れをなして目の前に広がっている。本当にそれぞれに意志があるのかどうか不安になってくるほどに皆、同じような顔をして立っているような気がした。
そんな人の海の中で、昌人はたった一人。これは孤独じゃない、孤立だと認識している。
 そして青。
 止まっていた群れがまたゆっくりと動き始める。飲み込まれないようにという思いだけで歩き始めるがなぜかどこか虚しい気がした。
 両側からの人々の群れがぶつかって前に進むペースが落ちた。どうして、こんなに人がいるのだろう。
 それでも、道の端を歩いているといろいろな店の中が見渡せていい。何も考えずにただ歩いているだけでもちらっと何か別の刺激があった。
 そんなに派手なものじゃない。
 少し気にして考えて見るだけだ。
 例えば、さっき喫茶店の中にいた男が一緒の席にいる女に殴られた理由は何だろうとか、スーツを着た中年の男二人の会話はやっぱり苦労話なのだろうかとか……とりとめのない無駄な想像力を膨らませるだけ。
 高そうなブティックのショーウィンドーを通り過ぎるときには、惨めな自分が映っていた。
 ……次の信号。
 後は同じことを繰り返すだけ。
 黙々と歩いて駅から自宅に向かっていく。
 じきに通りから外れたおかげで、人の数は徐々に減っていた。
 街が赤く染まり、夜が近いことを告げる。この時間に風が出てくるとこんな安物ではどうしても寒くて仕方がない。
 歩いて進むたびに人気のなくなっていく道をしばらく歩いていくと、いつ来ても客がほとんどいない小さなコンビニがある。
 いつものように、夕食を買いに寄る。実家から両親に健康のことを考えろと言われても、その言葉はこの楽さにはとうてい叶うものではなかった。
 出入り口のゴミ箱のあたり、ちょうど店員の目から死角になる場所にしゃがみこんでこちらを見ている人の気配を感じていた。
 店内の明かりで逆行を背負って見にくい事は見にくかったが、昌人の目にははっきりとその人の名前が浮かんでいた。
「まさか、裕梨……?」
 ……それは間違いだとすぐに分かった。
 記憶の中を流れる空白の時間。
 白いだけの思い出が音を立てて崩れ去っていくのを感じている。
 しゃがみこんでいた少女はゆっくりと立ち上がり、動揺している昌人に語りかけた。
「ユリって……誰ですか?」
 よく知った声だった。
 真面目そうな雰囲気で、髪を染めているわけでもピアスをしているとかいうわけでもない。かといって暗い空気を背負っているわけでもない少女。
「……ごめんね。人違いだった……」
 それだけが精一杯だった。
 どうしても困惑を隠しきれない昌人の表情を、少女は見逃していなかった。
「大切な人だったんだね……」
 同情するような声で切り返してくる。
 ……あまりにも辛すぎた。
 自分の意志で消したつもりになっていた時間。白いだけで何も見えないようにしていた時間の結び目がほどけて行くような、辛すぎる言葉だった。
 そんな少女の前では何も言えない。
 かつて、自分が裕梨という女性の前で何も言えなかったように。
「ごめんなさい、知らない人にいきなり……」
 ……そうじゃなかった。
 深く、深く知っていたから逆に何も言えなかった。勝手に溢れ出してくる涙を抑えることは出来なかった。コンビニの前で情けないのかも知れなかったけれど、もうそんなことはどうでもいいような気がして、堰を切ったように流れてくる思い出たちを押し留めることなどはできない……
 胸が苦しくなって、立っていられなくなる。
 硬いアスファルトに崩れるようにして膝をつき、両手で地面を叩くような感じで倒れ込む……
「裕梨……ッ!」
 後悔と罪悪感が全身を包み込んでいた。
 忘れようとして溜まっていた何かが、一度に浮き出ている……
「ど、どうしたの……?」
 あのときと同じ声で語りかけてくる少女はあまりにも辛い存在だった。
 こんなに辛い偶然を与えた神という存在は……生き地獄を味わえとでも言っているのだろうか……
 ――何も、何も出来なかった……僕は……
 見ていることしか出来なかった自分。
 その瞬間に知ったことと言えば、人はあまりにもあっけなく全てを終えるということだけだった。
 涙だけはとめどなく溢れてくる。
「落ち着いてよ、ほらっ、こんなとこで一人で泣かないでよ……」
 同じ声は焦っているようで、それでも優しく聞こえた。
 不思議だった。
 この声でなくなと言われると……自然に涙が止まって行くことにまたさらに悲しさを覚えてしまう。
「……ごめんね」
 いくぶんか落ち着きを取り戻して、昌人は立ち上がることが出来た。
 俯いたまま涙の跡を拭う。
 少し自分が恥ずかしくなる。それは取り乱し過ぎだったとしかいえない。
「気にしないで……もし……もし、良かったら……何があったのか、教えてほしいな」
 明らかに同情の眼差しだったことはわかる。
 あまりにも惨めに見えたんだろう。そう見られたとしても仕方のないことをした……
「……分かったよ……」
 それでも、断ることは出来なかった。
 白い記憶を埋めることが出来るとしたら、それは……自分自身が埋めるしかないと思えたから。
 コンビニの前で、少し柄が悪いかとも思いながら、昌人と少女は肩を並べて座っていた。

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