月と明かりと幸福と
                        香那

 それは、とても静かな夜だった。
 バイトを終えた俺は、屋上まで上がった。いつものように、重いドアを開けると、秋の夜の涼しい風がさあっと身を包む。いつもの場所のいつもの日課。ここにいるのは、俺一人。(まぁ、こんな時間にこんな所に来る人はそういないだろうが…)誰もいない屋上で、『今日もお仕事、ご苦労さん』ってな感じで見下ろす下界の景色は最高だ。
 ここは、高い高いビルの屋上。まぁ、言わば俺の特等席。そして、いつものように下界を見下ろす。全く、下は夜ってものがないのかね。もう深夜だっていうのに。車のライトの長い列。周辺のビルの明かり。まるで、クリスマスのイルミネーションだ。季節外れのクリスマス‥‥。ぼんやりと、そんなことを考えていたので、後ろの様子に全く気付いていなかった。だから、何となく振り返った時、初めて他に人がいたことに気がついた。ぎょっとした。いつの間に入ってきたのだろう?そこには、女の人がいた。
 きれいな人だ。二十二・三歳ぐらいだろうか?いつもの俺のように、下の風景を眺めている。何しに来たのだろう?こんな時間にこんな場所へ。何となく気になる存在だと思った。黒のニットの服とふんわりとしたスカートがよく似合っている。黒い髪が風でサラサラ揺れているのが、何だか寂しげだった。不思議な、独特の雰囲気を持った人だった。
「くすっ」
 不意にその人が笑いだした。それは、すごく冷たい笑い声だった。
「くすくすくすっ、くすっ‥‥」
 静かな笑い声は、静かに上弦の月の下に溶けていった。
「くすくすくすっ、くすくすくすっ‥‥」



「くすくすくすっ、くすっ‥‥」
 すぐそばで笑い声がする。何気に見てみると、女子高生の二人組みが楽しそうに笑っていた。周りを見てみれば、一人本を読む人、会社帰りのおじさん、携帯をいじる人、にぎやかな学生。午後の8時を過ぎた電車は、そろそろ満員になろうとしている。その中で、今日も私は一人の人をさがしている。今日はいるのだろうか?そして、目が一人の人に止まった。やった、いた!心の中で笑顔をつくる。たくさんの人の中で、その人はつり革につかまって、ぼんやりと景色を眺めていた。いつも、私の高校のある同じ駅から乗ってくる。大学生くらいかな?茶髪に、今日は明るいチェックのシャツをあわせている。少し幸せな気持ちになる。その時、不意にその人がこっちを向いた。そして、目があって‥‥さっとそらされてしまった。どうしよう。見てたこと、気づかれてしまったかな?何となく不安になった。
「朱音はさぁ、気にしすぎだよ。それ」
頭の中に美那子に言われた言葉が浮かんで、今日の授業中のことを思い出した。



 「くすくすくすっ」
 ヒソヒソ話と、笑い声とが交差している授業中の教室。
そして、
「うっ‥‥」 それに反応して、身体がギュッと緊張する。まただ、またいつものコレが始まった。ヒソヒソ話(または、クスクス笑い)が聞こえた時=緊張の始まり。そして、今もその方程式が見事に成立。いつからこうなってしまったんだろう?なぜか、ヒソヒソ声が気になってしまう。
 教室のヒソヒソ声や笑い声はまだ続いている。そして、緊張も続いている。私は、小さくため息をついた。

 電車の外を景色が過ぎ去っていく。月も電車と一緒に動いている。授業中のことを思い出したせいで、また少し緊張してきた。

 あかねはさぁ、きにしすぎだよ‥‥


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