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昼休みも終わり、五時間目も平和に過ぎて、事件が起こったのは、忘れもしない六時間目。
その日の六時間目は、眠たくなる事必至の古典で、俺は黒板に書かれた漢字の羅列を写す振りをして、窓の外を見ていた。
教室の中は静かで、何人かは居眠りをしていた。当然、前のほうに座っている和也も、例に漏れず眠っている。
後ろの席の方になると、男子はほぼ全滅に近い。だから、起きているのは、俺と、二人ほどの女子くらいだ。
窓際に座っている俺は、ふと外を見る。
残暑厳しい校庭で、一組と二組の生徒が整列していた。
中には、小学校からの友達の健も混じっている。多分、あの中の誰かが、泉谷なのだろう。
が、突然、その列が乱れ始める。
男子が上空を指差し、女子の何人かが両手で顔を覆う。教師が呆然と立ちすくむ中、健が、こちらに向かって走り出すのが見えた。
一体、何が起こっているんだ?
思わず、俺は校庭の連中が指差している方角、つまり、校舎の上を覗いた。古典の先生に叱られるのを覚悟の上で。
しかし、俺は叱られなかった。
窓から乗り出した視界を、一瞬大きな何かがよぎる。
正確には、上から下へと落下していったその『何か』は、数秒後、ごき、と嫌な音を立てて、その一部が奇妙な方向に曲がった状態で、コンクリートの地面に到達した。
教室の内側から、何時の間に起きていたのか大勢の悲鳴が上がる。
そのうち、何が起きたかを理解したらしく、校舎中が大パニックに見舞われた。
和也だろうか、それとも、真下に辿り着いた健だろうか、誰かが俺を呼んでいる声がする。
けれども、俺はその声に答えることも出来ず、愕然としていた。
当然だろうが、俺は見てしまったのだ。
たった今目の前を落下していったものは、人間の顔をしていた。
一瞬目のあったそれは、同じクラスの井上久子の顔をしていた。
「正!」
呆けている俺を、誰かが強い力で教室の内側に引きずり込む。
俺は、その腕の主に礼を言うことも出来ず、軽い失語症に陥ったまま、今目の前で起こったことを頭の中で反芻していた。
俺の目の前を、井上が落ちていった。
井上の身体はコンクリートに叩きつけられ、首が曲がっていた。
井上の身体は、全身血まみれだった?・・・いや違う、血に濡れていたのは頭部とスカートだ。
ふと俺は、自分の額がやけに濡れている事に気付く。
汗でもかいたのかと思い、掌でその水気を拭う。
自分の汗と、その不自然な水気に混じり、かすかに、昼休みに女子が飲んでいた紅茶の、あの甘ったるい残り香が、鼻の辺りをすり抜けていく。残り香?俺の制服にでもついていたのだろうか?
途端に、数人の女子が悲鳴を上げた。勿論、当の俺自身、驚きのあまり自分の目を疑った。
汗で濡れているとばかり思っていた掌は、血で赤く染まっていたのだから。
「・・・・・・なんだよ、これ」
ぽつりと、ようやくその一言だけが口から出た。
周りの音が何も聞こえてこなくて、耳鳴りがする。
その場にへたり込んだ見てくれとは裏腹に、俺の頭の中にたくさんの疑問が湧いてくるのがわかった。
何故井上が空から降ってきた?
何故井上のスカートはあんなにも血まみれだった?
何故俺の掌には血が?この血は、井上の血なのか?
何故、地面に激突したはずの井上の血が、俺の顔につく?
警察に連絡をしたので、その場から動かないようにと校内放送が入る頃には、どうやらとんでもない事件に巻き込まれたらしい事を理解し始めていた。
日付は、まだ九月の半ば。
誕生日が来ていない俺は、まだ十五歳だった。
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