アーク ロイヤル
                        辻 李




 絶対に消えない心の傷はありますか?



 死んでしまおうと思った。
 大好きな人が死んでしまったから。
 真夜中の交差点で車にはねられたら、きっと即死だろう。
 気付かないうちに死ねるし、相手も逃げてくれるから、助からずに済む。
 幸い、都内に身内なんていない。身元不明の遺体にでもなって、朝まで路上で放置されて、二十三年の人生に、そんなピリオドを打つのも悪く無いかもしれない。
 いや、むしろ早く、人生を終わらせて、大好きなあの人に会いたかった。
 そう思ったから、嵯峨野玲二は車道に飛び出したのだ。
 目の前に迫るヘッドライトが、自分の身体にぶつかるのを期待して。
 それなのに。
 ドン、と、思ったより軽い衝撃で、玲二は尻餅をついただけだった。
「・・・え?」
 おいおい、マジかよ。
 自殺しようとして車にぶつかって尻餅だけなんて、超だっせぇ。
 冷たいアスファルトに座り込んで、こうなれば路上で凍死でもしてやろうかと考えたその時、玲二の目の前で停まった車のドアが開き、中からコート姿の小柄な人影が降りてきた。
「ちょっとあんた」
 甲高くも低くも無い、ごく平均的なアルトが、逆光の中に白い息とともに流れ出る。
 近付いてきたのは自分よりも随分小柄な女だった。暗いのと、車のライトの逆光とで顔は良く見えないが、近付いた時、その吐息ではなく、衣服から酒の匂いがした。
 女は玲二の顔を覗き込んで、それから皮の手袋を嵌めた手で玲二の頬に触れる。
「何処も怪我は無い?」
 真剣な口調で尋ねてくる女に、玲二は無言で頷く。それを見た女は、一瞬ほっと安堵の吐息を漏らしたかと思うと・・・
「この馬鹿男!」
 その女性平均よりも明らかに小さな手の何処にそんな力があるのかと疑いたくなる程強い力で、玲二を殴り飛ばしていた。
「何すんだよあんた!」
「やかましい!」
 頬を押さえて言い返したのはいいが、即座に怒鳴られ、玲二は再び沈黙する。
「あんたね、あたしが驚異的な反射神経と動体視力持ってたからいいものの、下手すりゃ今頃殺人犯よ?車ではねちゃったから逃げずにそのまま出頭すると業務上過失致死で普通の殺人罪より比較的罪は軽くなるから良いにしても、それでも身上書に傷が付くわ!あたしまだ二十歳なのよ、若い身空で人殺しでもしたら最後ろくな未来は無いでしょうが!どうせ自殺するなら他人に迷惑かからないような場所に行くか、シンジゲートに内臓売り飛ばすか、でなけりゃあたし以外の誰かの車にはねられなさい!」
 無茶苦茶な言い分もあるもんだ。
 先程まで自殺しようとしていたはずなのに、その気分すら女の口上の前に消し飛んでしまい、玲二は呆気に取られる。が、
「って、二十歳?俺より年下かあんた」
 女が自分よりも年下である事に注目して、玲二は立ち上がる。女も、当然ながらそれに反応して、腕組みしたまま玲二の顔を見上げる。
「あんたは幾つなのよ」
「二十三」
 簡潔に答えると、女は更に玲二を白眼視した。
「二十三?そんな歳で自殺なんて考えてたの?」
「うるせえ。自殺に年齢が関係あるかよ」
「それもそうね」
 反論に意外なほど静かに相槌を打った女に、数秒だが二人の間から言葉が消える。
 再び口を開いたのは、女の方からだった。
「それじゃ、とりあえず車に乗ってもらおうかしら?」
「へ?」
 いきなり奇妙な事を言い出され、玲二は戸惑う。
 その隙に、女は車に乗り込むと、一端切っていたエンジンをかけなおし、棒立ちになっている玲二の横に乗りつけると、運転席から顔を出す。
「ここであったのもなんかの縁ってやつじゃない?ちょっとした人生相談くらいなら乗ってあげるけど?見たところ、あたしのせいですっかり死ぬ気失せてるみたいだし」
 だから大人しく車に乗れと言う女に、玲二はさあどうしようかと思った。
 この女は何かが変だ。具体的にはわからないけれど、少なくとも今まで彼の周囲にはいなかったタイプである事に間違いは無い。そんな女がいきなり初対面の、それも若い男を、車に乗せてどこかに連れて行こうと言うのだから、常識的にみてもこれは何かが変だとしか言いようが無いではないか。
「・・・あんたさ、自分で言ってる事わかってるか?」
 とりあえず、尋ねてみた。すると、女は頷いて、
「つい数分前に会ったばかりの、見ず知らずのそれも自殺志願の若い男を自分の車の助手席に乗せようとしてる。ついでにそれは二十歳の若い女が、倫理的には絶対やってはいけないことだって言うことぐらいは理解してるけど?」
と言った。
「・・・わかってんじゃねえか」
 頭を抱えて、玲二は先程よりも見えやすくなった女の顔を改めて見る。
 細かいつくりに関してはまだわからないが、割と丸顔で、目が大きいことはわかった。
「ここは、ひとつ乗ってみるか」
 自殺しようと言う気分を保つどころではなくなった玲二は、大人しく女の運転する車の助手席に納まり、シートベルトをかける。
 車に乗った瞬間、かすかに甘い匂いがした。
「大人しくしててよ、すぐ着くから」
 ドアが閉まるのを確認してから、女は車を発進させた。
「ところでさ、あんた名前なんて言うの?」
「・・・玲二、嵯峨野玲二」
「へえ、綺麗な名前じゃない。あたしは双葉、森尾双葉ね」
 双葉と名乗った女に、玲二は口に出さないまま、森の双葉だなんて洒落だろうか、と考える。
 いきなり見ず知らずの男を車に乗せるような剛毅な真似をしでかす女だ、今名乗ったのが本名とは限らないだろう。
 それにしても、一体どこへ連れて行かれるのやら。
 一人密かに不安を抱えたままの玲二を無視して、双葉の運転する車は、夜の新宿を走り抜けていった。


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