翌日、玲二は、仕事が始まるまで暇だと言う双葉に、駅前まで車で送ってもらった。
「何か、変だな」
 改札口の前で、玲二は三十センチ下にある双葉の顔を見下ろして、ふと呟く。
「変って何が?」
 訊き返す双葉に、玲二は少し、目を細めた。
「・・・・・・なんとなく」
 そう、なんとなく変な、そんな夜。
 けれど、玲二の中では、確実に何かが動いた夜だったから。
 切符を掌の中に隠して、玲二は最後にもう一度だけ、双葉を振り返る。
「あのさ、俺・・・」
「何?」
 見上げてくる双葉は、やっぱり年上にしか見えない。
 小さくて、乱暴で、優しい、バニラの香りがする新米ホステス。
 自殺する代わりにこの女に出会えて、今は良かったと思う。
「俺、やっぱり、死ぬのはやめるよ」
 雑踏の中で、昨夜のように片方の眉を上げてみせる双葉に、玲二は久し振りに、自分から笑った。
「今度会った時、あんたに誉められるような立派な生き方してるかどうか、保証は出来ないけど、それでも、俺の方は胸張っていられるよう、努力してみる」
 握手もしなかった、目の前の女に、せめて一言、言いたい。
「だから、あんたも頑張れよ」
 双葉が言葉を返す前に、玲二は改札に向かって歩き出す。
 顔を見るのは照れくさかったから。
「・・・・・頑張れ」
 背中に、小さな声が届いて、振り返らずに、手を振った。
 雑踏の中に紛れて、乗り場に続く階段を上る。
 振り返った時、もう双葉の姿は見えなかった。
「・・・・有り難うって、言わなかったな」
 思い出して、そっと、昨日双葉に殴られた痣に触れる。
 口元に貼られたバンドエイドからは、バニラの香りはするわけも無く。
 けれど、これを貼ってくれた指には、確かに残っていた。
 あれは結局、バニラの香りだったのだろうか?
 答えがわからないまま、玲二は電車に乗り込んだ。
 今度会うときは、自殺志願者とそれを助けたお節介ではなくて、もっと別の関係で出会えると良い。
 その時は、今よりましな自分でいるつもりだ。
「だから今はさようなら・・・・か。ドラマっぽいな」
 なんとも陳腐な幕切れだと思いながら、流れていく景色を、ずっと見ていた。



 その決意と別れは、バニラの香りに似て、甘くて苦かった。




『アークロイヤル』についての補足

 これは煙草の銘柄。
 バニラの香りがするそうです。
 実物は拝見した事が無いので、試しに探してみて実在しないものだったとしても怒らないで下さい。
この煙草を吸っていたのは双葉ではなく、彼女の恋人(未登場・男二十六歳)です。
(後書きを書くなといわれたがこれだけは書いてやる)

  

辻李


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