初夏の香りが鼻先を抜けていく。
この香りは何年ぶりに味わうだろうか。車窓から漂ってくる懐かしい空気に抱かれて、少し重たい気分になる。
見飽きた田舎を駆けてゆくことが苦痛だと思わなくなったのは救いなのかもしれないと思えた。
あれから三年、いや、四年になるだろうか、現実から逃げ出したい一心で家を飛び出したことにどれだけの意味があったのか、ようやく分かる時が来たと僕は勝手に決め込んでいた。
相変わらずの田園地帯を眺める僕のほかに乗客はいない。
何もかも昔と変わらない町だ。ほとんど進歩することはないし、これ以上悪くなっていくこともないのだろう。
僕はそんな空気が嫌だった。子供のころから同じことしか言わない親父とその前では何も言ってこないお袋にはもううんざりだった。唯一、兄だけが僕の気持ちを分かってくれていただけだ。
兄は元気にしているだろうか。
親父の病気を知らせてきた時、兄は普段と変わらない様子で電話をかけてきた。
僕はちょうどバイトから帰ったところで、まだ荷物を部屋の中に置いてしばらくもたっていない時間だった。
久しぶりだなと言って笑う兄が突然会話のペースを変えた時、僕はそれだけで何かが起こったことを理解できた。
「親父が倒れた、お前も一旦帰ってこい……」
たったそれだけの内容で僕は兄の言いたいことをすべて理解した気がした。
両親と僕の仲がよくなかった分、兄とは何でも話し合っていた。
僕は兄の苦労を知っていたにもかかわらず、自分だけが逃げたのだ。だからこそ負い目を感じている部分はあるし、兄がいかに自分のことを助けてくれようとしているかという気持ちもわかっている。要するに、彼は兄としては完璧な存在だったんだと思う。
その兄の言葉少なげな一言、そう、しゃべることが好きな兄が多くを語ろうとしなかったことが、ことの重大さを何よりも物語っていた。
「今さら僕が帰っても……」
思わずに口から出た言葉だった。
僕も自分の耳を疑ったほどだ。
「……今さらだからだ、晶介」
久々に自分の名前を呼ばれていた。
親父の言うことを蹴って、中途半端な街でフリーター生活を送っている僕が帰ることを兄は望んでいるらしかった。
明後日には帰る、とだけ伝えて、僕は電話を切った。
バイト帰りで疲れてはいたものの、僕がそれからすべきことは決まっていた。
バイト先の喫茶店の店長に電話してしばらく休みをもらいたいということを手短に話す。
「親父さんが倒れたんか、そりゃあ仕方ないのう……三崎が来られんのはしんどいけどな」
店長は店のほとんどを僕に任せてくれている。自分は病気の奥さんの側にいてあげたいらしく、早退してしまうことが多かった。
理由を知っているのは僕だけで、他のアルバイトの子達は店長の事をだらしのない奴だと言っている。自分が悪く言われていることを知っていて、それでもあの人は僕に他の人には話すなと口止めするような人だった。
「すみません。二、三日したら戻ってきますから」
玄関先、電話の前に立ったまま僕は謝ることしかできなかった。
家を飛び出してきて泊まるところもなかった僕を自分の店においてくれて、その上にそれなりの生活ができるだけの給料をくれている人だ。
恩人を困らせるようなことは出来ればしたくない。
「お前ほどの男や、実の親が倒れたゆうて無視できるわけあらへんのやろ。それにな、親っちゅう奴はの、なんやかんやゆうても息子が戻ってくるのは嬉しいもんや」
言葉の重さを知らされることが多い一日となった。
兄の一言と、今の言葉。
実の父親に散々けなされて育ってきた僕が、今はこうして評価をしてもらっている。
僕の生き方自体が間違っていたわけではないと、やっと実感できる時がきたようだった。
「……僕は出来の悪い息子ですけれどね」
そういった後、店長には笑われた。
出来が悪いことを分かっているならもう十分だというようなことを言われたのを覚えている。
次の日の昼過ぎ、僕はこの街にやってきた道を逆にたどることにした。