『L』
                        北海 篤

※ 『万華鏡』に掲載した『L』とは仕様が異なります。ご了承ください。


夢を見た。
酷く哀しい夢を。
残るのはただ、罪悪感だけ。
だけれど、これが夢でよかったとまだ思えない。
目が、覚めないからだ。


 暗い暗い海に浮いているような錯覚を感じるようなほど、辺りは真っ暗だ。これは、夜だからではなく単に“彼”が目を閉じているからなのだが。
 眠っているわけではない。
 ただ目を閉じて、すべての情報から逃れているだけ・・・と言っても彼は意図してそうしているのではなかった。
 彼――芳人はその状態のまま長い時間を過ごしていた。そう、このまま永遠に何も変わることなく過ぎていくのではないかと思われるような、長い時間を。
 しかし、静寂は破られた。例え様の無いほど、綺麗な声で。
「おはようございます」
 まごう事なき、朝の挨拶だ。少し間を置いて、何度か同じ言葉が芳人に懸けられた。
 それでも目を開かないからなのか、『起きろ』というニュアンスが含まれているような触り方で頬を軽く触れられる。
 その感覚が妙にリアルなのを不快に思ったらしく、やっと芳人は重いまぶたを開いた。
 見計らったように、『おはよう』の声の主は微笑みかけて、
「こんにちは、はじめまして」
 と芳人に話し掛けた。その微笑みは、天使のようだ。というか、御丁寧にも背中に羽を生やしている。容姿も金髪の長い髪、真っ白な服、そして整った顔・・・天使そのままだ。
 ・・・さっき『おはよう』と言ったのに、なんですぐに『こんにちは』なんだろう?と思う。そんなどうでもいい事が、『誰なのだろう』という基本的質問よりも先に頭に浮かんだあたり芳人も混乱しているらしい。状況が把握できていない。なので、咄嗟に出てきた言葉が、
「・・・は?羽?何かの勧誘?」
だった。それでも『おはよう』の変人さんはやはり笑ったまま綺麗な声で話し掛けた。
 その笑い方はなぜか誰かを思い起こさせるようなものだった。しかし、名前までは浮かばない。他人の空似、と言った所だろうか。
「いえ?本物ですよ?あなたをお迎えに来たんです」
 到ってまじめに、突拍子のない言葉を言う。むっとした芳人はぶっきらぼうに答えた。
「そんな冗談に付き合ってる暇無いから、帰るわ」
「・・・どこに、ですか?」
 即答された答えに、我に返る。周りを見渡してみても現実離れした場所でしかなかったからだ。
 芳人は最後の記憶をたどってみた。しかし、ベッドに倒れこんで眠ったという以上は思い出せない。
 しかし、此処は自室でも何でもない。真っ白な部屋、というか空間に芳人と自称天使だけが存在している。遠近感もあったものではない。その現実が彼を少し冷静にしたようだ。
「あんた、天使だよな?」
「はい」
「じゃ、俺死んだんだ」
「・・・はい」
「ふ〜ん・・・」
「あっさり・・・認めるんですね」
 自称天使は意外そうに芳人を見詰めた。その反応から、普通はどういう風にするのか想像するのは容易い。普通なら、取り乱し、簡単には認めたりしないのだろう。
 しかし、芳人にはそんな思いは微塵もなかった。未練が無いわけではないが死んで困る理由も無く、死んで悲しむ人間も殆ど居ない、親でさえ悲しむかどうか疑わしいと思いながらずっと生きてきたからだ。
 ただひとつ、気懸りはあることはあるのだが、それを口にする理由は無い。
「・・・で?俺天国に連れてかれんの?それとも地獄?でも天使がお迎えに来てくれたんなら天国、か。それとも俺なんかソーゾーも出来ないコーショーなとこ?」
「ああ。転生してもらいます」
 転生、生まれ変わり。つまりまた、人生(人ではない可能性もあるが)を送れという有難い制度があるらしい。
 芳人はうんざりした様な表情をしたのだが、自称天使は気にも留めずに話を続ける。
「それで・・・ですね、その手続きがいろいろありまして少々時間をいただきますね。まずはお名前を」
「山咲芳人」
 一瞬、自称天使の顔が変わったのに芳人は気がついた。優しげで、それでいて偽善的な笑顔から何かしら残酷なものを感じさせるような、表情に。しかし、気にはしなかった。しても仕方がないと判断したのだ。
「あ・・・次は・・・」
 そう言って、自称天使は次々と質問を重ねた。血液型は?とか住所は?とか家族構成は?とか・・・お役所に出す書類のような事ばっかりを、根掘り葉掘り聞いていく。
 それが終わると、よく分からない書類に質問したことと同じような事を書かせた。
 途中、芳人が理由を尋ねると、返ってきた答えは「間違いがないように」との事だった。
 事務的過ぎる作業だ。実感が伴わないほどに。
 あるいは、わざとそうしているのかもしれない。自らの『死』を受け入れやすいように。
 小一時間ほど過ぎたときやっと書類の束はなくなっていた。
「で、これで終わり?」
 伸びをしながら芳人が聞くと自称天使は口を開いた。張り付いているのかもしれないとも思えるような笑顔で。
「いいえ、明日、明後日と実務をこなしていただきます。それが終われば、無事転生と言うことに・・・」
「実務って何?」
 予感がした。
 だから、自称天使の言葉を遮って芳人は口を挟んだ。自称天使はしばらく諮詢してから、ゆっくりとことばを選ぶようにして答えた。それは『言ってはいけないこと』があると暗に示しているのと同じで。
「簡単な、作業ですよ」
「俺、オベンキョー系苦手なんだけど?」
 予期していたことと違ったのか、自称天使はやわらかい微笑みに戻って続けた。
「大丈夫ですよ、ごく簡単な作業ですから」
「・・・じゃあ、それが出来なかったら?」
「・・・」
 こたえない。都合が悪いことです、とはさすがに言えないようだ。
 なんとなく、分かるなあと芳人は思った。
 この自称天使は普通一般に想像する『天使』というものと同一なのだ。純粋で綺麗で神的な存在。だから、『嘘』は吐けないのだ。恐らくは禁忌なのだろう。だから都合が悪いと黙る。それで、自ら『天使である』というアイデンティティを守っているかのようだ。
「それでは、また、明日に来ますから」
 空気が悪いのを感じ取ったのか、自称天使はさっさと書類の束を抱えて飛んでいった。自らの純白の翼を羽ばたかせて飛ぶ姿はまさに『天使』。
 芳人はしろい空間に取り残された。しかし、することも無い、というか何が出来て出来ないのかよく分からない。だから、また目を閉じた。明日になれば何か分かるだろう、面倒な仕事はすぐに終わらせれば、いいなどと考えながら・・・。


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