「おはようございます」
 また、自称天使の声で芳人は目を覚ました。今回は一度目でだったが。
 『おはよう』と言ってはいるが、朝・昼・晩の区別は無いらしい。朝のあの突き刺さるような眩しい日差しは無く、ただ平坦で何の変化も無いしろい光が常に在るだけだった。
「ああ・・・で何すんの?」
「今日は私の『しごと』を見ていて頂きます。明日は・・・今日私がしたことと同じ事をして頂きます。簡単なことなので、見るだけで分かると思いますが・・・」
「『しごと』?」
「説明するより見て頂いた方が早いので・・・ついてきて下さい」
 そう言うと自称天使は羽を羽ばたかせた。
 芳人はそれを呆然と見守った。ついて来いと言われても、芳人には羽が無い。それ以前に自分自身で飛べる人間なんか居ない。困ったような顔をしている芳人を見て、笑って言った。
 こういう場合、普通の人だと笑ったりはしないだろう。やはり、常識がズレているのだ。異文化理解ってこんな感じなのだろうなぁ…となぜか芳人は思う。
「ああ、大丈夫ですよ?普通に歩くみたいに足を一歩踏み出してみてください。第一・・・」
 ここで態とらしく言葉を切る。それから、満面の笑みになって、
「もうすでに死んでるんですから、これ以上死ぬことないですし」
 と、とんでもない事をさらりと言ってのけた。確かにもう死ぬことは無いのだろう。
 しかし、芳人は納得がいかないという表情だ。
 しばし逡巡した後、駄々をこねても仕方がないと諦めたのか、芳人は一歩歩みを進めた。すると、見えない階段を上るように歩いていけた。便利なものだ。
「ね、大丈夫でしょ?」
 自称天使は何があっても笑顔だ。それがやはり『天使』のアイデンティティなのかもしれない。
 その顔を見て、芳人は嫌悪感と違和感とそして奇妙な親近感を同時に覚えた。そのせいなのか、ずっと疑問に思っていたことを思い出す。
「あ、そうだ。名前、なんてゆーの?」
「なまえ・・・ですか?」
「だって呼べないだろ?」
 心の中では『自称天使』と呼んでいたのだが、それも本人を前にしては失礼だと思ったのだった。
「そうですねぇ・・・ユウ・・・ですよ」
 そうですねぇって何?と思いつつも面倒なので聞かなかった。聞いても仕方がない、と芳人は昨日の反応から読んでいたのだ。
 その間にもさくさく進んでいる。普通に歩くのと感覚が違うのかまったく疲れる様子は無い。また、例にその姿は生きている人間からは見えていないようだった。
 それはそうだろう。空中散歩を見られれば大問題となる事間違いなしだ。
「あ、もうすぐです・・・ほら、そこ」
 嬉しそうに指を刺した先には、特徴的な古びた真っ白な建物――そう、病院だった。何処に行くべきか確実に分かっているらしく、真っ直ぐにユウは進んでいる。
 羽ばたいていた翼が、とある病室の窓の前に来て、止まった。そして、何の疑いも無くその病室に入っていこうとしている。
 ユウが手を翳すと壁がまるで無いかのように通り抜けた。
「ここですよ」
 そう言って、ユウはさっさと入っていってしまった。その後を追って芳人は意を決して壁にぶつかっていった。常識で考えれば、決して通れるはずも無いものだから。
 しかし、思ったより簡単に通り抜けられた。想像した衝撃は無く、目の前にはよくあるような病院の一室が広がっている。
拍子抜けした所為で病室を見る余裕が出来たのは不運だったのかもしれない。
 ベッドの上にはただ寝ているようにしか見えない男が居る。その横で泣き崩れている女は恐らく恋人なのだろう。
 こんなところで何をするんだ?
 そう思って芳人がユウを見ると、信じられない光景が広がっていた。
 ユウの手には鎌があり、それを病人の男の胸に向って振り上げていた。まるで、死神が生ける者の命を奪わんとするような図。
「おいっ!?」
 芳人が止めようとした刹那、鎌は振り下ろされた。不快な音は無く、しばらくの間沈黙がすべてを支配した。
 しかし。
「・・・え?嫌・・・嘘でしょ・・・」
 事実を知った女の悲痛な声が響く。鎌が男の胸を刺したその時に、男の命は終わったのだった。
「・・・『しごと』終了です」
 ユウは冷たく言い放った。
 それを聞いた瞬間、芳人はユウの胸座を掴み、言い放った。
「殺したのか!?お前は・・・」
「違います。寿命だったのです」
「だとしても・・・」
 そう言って、ちらっといっそう激しく泣いている女の方を見た。表情は痛々しく、彼女の方が死人のようだ。
「・・・悲しむ人が居れば、寿命でも延命しろと?」
 ユウの言葉は冷静だ。しかし、表情はあくまで穏やかで、微笑さえ浮かべている。
「俺には、出来ない」
 きっぱりと、言い放つ。
「・・・そんな我が儘は聞けません」
 小学校低学年の教師のような口調で続ける。
「寿命の終わった方の魂を我々の所に誘う、それが我々のしごとです。どうして出来ないのです?何も悪いことはしていないのに」
 頭では理解できる言葉だ。
 しかし、行動で実行できるかと聞かれれば殆どの人間は悩み、もちろん即答で出来る、と答えられる人間などほぼ皆無だろう。
「・・・考え、させて・・・くれ・・・」
 呟きは小さい。
 それを聞いたユウは小さく笑い、
「明日の朝、また迎えに行きますから。その時までに決めてください」
 と顔も見ずに言い、そのまま黙ったままの芳人に背を向けた。まあ顔を見ようとしてもうつむいているので見ることも出来ないのだが。
 ユウはまた飛び立とうとして足を止める。そして芳人の方に顔を向けた。今度は、きちんと瞳を見られるように。…叶わないけれど。
「ああ、もし『ダメ』だという結論に達した場合、あなたは永遠の苦しみを受けることになるでしょう」
 最終宣告に近いことば。
 それさえも彼は笑顔のままで言ってのけた。
 なおも前を見ようとしない芳人をほったらかしにして、ユウは飛び立っていった。
 口元に他に類を見ないような笑みを浮かべながら。


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