その日、仕事は上司命令で早く終わった。
 例の殺人事件がすぐ近所であったこともあるのだが、実は警察関係者から、日没前に帰宅するように勧告が出されたらしい。
 要するに、小学生に教師が言い含める「早くおうちに帰りなさい」というやつだ。
 私は家に持ち帰らなければならない残業も特に無いため、軽い鞄を片手に、一昨年買い換えた携帯電話で、家に連絡を入れる。
 早く帰るから、と言った私の耳元で、妻の心配そうな声に、子供達の土産を催促する声が重なる。
「じゃあ、駅前を回って、なるべく早く帰るよ」
 そう、なるべく早く。
 西側にある窓の外を見ると、茜色に変わった空を、太陽がゆっくりと沈んでいた。
 もうすぐ、日が暮れる。
 早く帰らないと、真っ暗になってしまう。
 月が昇る前に、帰らなければ。
 ―影和邇が出るよ―
 まただ。
 私の頭の中で、祖母の話してくれた昔話が何度も繰り返し聞こえていた。
 何故、今その話を思い出すのだろう。
 死体に歯形が残っていたから?
 いやでも、あの死体に残っていたのは鮫の歯型だ。ワニじゃない。
「ワニ・・・・・」
 自分で口に出して発音してみて、私はおかしな事に気付く。
 私の思い浮かべるワニは、祖母の言っていた和邇とは違うような気がする。微妙な発音だけではない。もっと、存在そのものからして違うような・・・。
 それに、何故海にワニが出るのだ。
 駅前に向かいながら、私はずっとそのことを考えていた。
 駅前にくると、子供達が騒いでいた土産を買ってやろうと思い立ち、目に付いたケーキ屋で砂糖煮にした果物がふんだんに使われているタルトを買った。甘いものが大好きな子供達の喜ぶ顔を思い浮かべながら、私は 自宅付近にある公園の前を通り過ぎる。
 いや、正確には、通り過ぎようとした。
 私がその公園の前を通り過ぎることが出来なかったのは、視界の端に映る赤いものを目撃してしまったからだ。
 緑の芝生を、どす黒い赤が斑模様に変えている。
 血だ。
 背中を、何か冷たいものが滑り落ちていくような、嫌な感じがした。
 その時の私には、あの血が、何が流したものなのか、という段階的な思考が存在していなかった。ただ直感的に、それが人間の血だと思い込んでいた。それは恐らく、その公園が今朝騒がれていた殺人事件の現場の公園、そのものだったのもあるだろう。
 とにかく私は、芝生を染める血の元を視線で追っていた。心のどこかで、近くに死体が転がっていやしないかという予感を抱えて。
「・・・・・・あ!」
 それは思ったより早く発見できた。血染めの芝生の中に、一人の男が倒れていたのである。だが、私はそれ以外の理由で叫んでいた。
 倒れていた男は私の見知った人間だった。
「万屋の・・・・!」
 全く身動きせずに倒れている男は、確かにあの『海の家』の店主、守谷竜堂だったのだ。
 慌てて駆け寄り、私は守谷の脈を確かめる。
 あった。
 弱いが確かに脈のある守谷の身体を、私は抱え起こして芝生の中心にある植木の根元まで引きずっていってから、改めて彼の名前を呼びかけた。
「守谷くん!しっかりしろ、ぼくだ、一条だ!」
 大声で何度か呼びつづけていると、守谷は苦しげにだが、その目を開ける。
「いちじょう・・さん?」
「ああ良かった、今救急車を呼ぶから、ちょっと待っててくれ」
 守谷の無事を確認して、それから携帯電話を取り出した私を、何故か守谷は無言で制した。その顔を覗き込んだ私に、彼はゆっくりと首を横に振る。
「大丈夫です。大丈夫ですから・・・」
「しかし、そんな大怪我で」
「良いんです。もうすぐ、友人が迎えにきてくれますから」
 彼は青ざめた顔で、先程友人に助けを求めた後意識を失ったのだと言った。
 守谷の傷は相当深手のように見えたが、私は、もしや昨日の殺人事件の犯人にやられたのかと思い、尋ねてみる。
「まさか、昨日の事件の犯人に?」
 守谷は、レンズの欠けた片眼鏡を左手で直しながら苦笑した。
「捕まえようと思ったんですけど・・・失敗してしまいました」
 傷が痛むのだろう、笑った拍子に、少しだけ顔を苦痛に歪める。
 守谷は、それからしばらく何も言わなかったが、ふと、私にこう問い掛けてきた。
「一条さん、影和邇というものをご存知ですか」
 影和邇。
 私の脳裏に、祖母の昔話がよぎる。
 思わず頷いた私に、守谷は少し考えるような間を置いてから再び口を開く。
「影和邇の姿は、知っていますか?」
 知らないと答えた私に、守谷は僅かに首を傾げる。・・・いや、本当は首を横に振りたかったのかもしれない。何しろ身動きが取れない身体だ。動作が上手く行かなくてもそれは無理も無い。
「影和邇は、鰐ではありません。それを良く覚えていてください」
 そう言った守谷に、私はその意味を尋ねることは出来なかった。
 公園の入り口から、一人の若い男が走り寄って来たからだ。
 守谷と同年代だろう、最近の若者らしく髪を斑に染めた長身の青年は、私と守谷の間に割って入ると、私に向かって軽く頭を下げてから、守谷の頬を軽く叩いた。
「この間抜け」
 短い一言だったが、守谷はそれを聞いて、苦しそうな顔で苦笑する。
 そして、私が何も出来ずにただ呆然と見守る中で、青年は守谷を担いで公園から立ち去った。勿論、去り際に、
「あんたも帰れ」
と、短いが妙に痛烈な一言を残すことは忘れずに。
 私は、彼に反論することも出来ずに帰宅した。
 守谷は、病院に行かなくても大丈夫だろうか、そう考えながら、私はもう一つのことを考えていた。
 影和邇は鰐ではない。
 守谷はあの時、確かにそう言った。


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