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一体、祖母は夢の中で、私に何を教えようとしたのだろうか。
答えは全くわからないまま、私は約束通り、『海の家』にやって来た。
家族には、怪我をした友人の見舞いに行くから帰りが遅くなる、と説明しているので、少々帰りが遅くなっても、まあ心配される事は無いだろう。
今日も、空には少し欠けた月が昇っている。
石動の言う通り、本当に守谷は元気になっているだろうか。
それが気がかりで、私は、まだ戸口を開けて、そこから明りが漏れている『海の家』の前へと急ぐ。
「こんばんは」
覗きこむようにして、店の中を見ると、そこには、週刊誌に目を通す守谷の姿があった。
「守谷くん」
声をかけると、守谷は此方を見て、いつものように笑う。
「一条さん。どうも先日はご迷惑をおかけしました」
その振る舞いには、つい二日前に負ったはずの重傷など、影も形も見て取れない。
だから、私はほっとして、同じ様に彼に向かって笑いかける。
石動の言う通り、元気になってくれていて良かったと、そう言おうとした、瞬間。
目の前で、守谷の表情が、僅かに動く。
「一条さん!」
守谷が叫ぶのと、何かの気配に私が後ろを振り向いたのは、どちらが早かっただろう。
私の後ろに見えていたのは、誰も立っていない、店の外。
店からの明りが漏れる地面に映った、長く伸びる私の影と、それに今にも喰らいつこうとする、何かの影。
それは、とてつもなく大きく、異様な形をした魚だった。
肉食獣のそれに似た長い牙、しなやかに細い、鮫とも鯱ともつかない体の形、刺と言うよりは、剣が生えているような背鰭。
影しかないので、目は当然ながら、何処にも無い。
―影和邇―
瞬時に、私の頭の中でその言葉が閃く。
今にも、私の影に喰らいつかんとするそれは、まさしく、祖母が私に話してくれた、昔話に出てくる『影和邇』だった。
あの牙に、少しでも影を齧られてはいけない。
直感的にそう感じ、私は影和邇から逃げるように、店の中から外に移動する事で、自分の影を動かす。
影和邇の牙は、私の影に触れられなかったが、そのかわり背鰭が微かに私の腕の影を掠める。
その途端、剃刀か何かで切られたかのように、スーツの袖がすっぱりと裂けた。
いけない、と思う。
新しいスーツに傷を作って、妻に怒られてしまうな、と思う反面、私の中では、自分自身の命が危険にさらされているという警鐘が鳴り響いている。
だが、影和邇は影なのだから、影の作れない場所まで来れば良いのではないだろうか。
そこまで考えてから、私ははっとして、空を見上げた。
空に浮かぶのは、満月より少し欠けた月。
明かりが無くても、その光だけで影を作り出す事なら簡単に出来るほどの光源が、何も遮る事の無い夜空に、ぽっかりと浮かんでいる。
しまった。
逃げようと思っても、これでは逃げ場も無い。
影和邇は、一直線に私の方へと向かってくる。
足元で、そこだけ次元が喪失した、奇妙な影芝居が繰り広げられているかのような感覚。
もう駄目か、と覚悟を決めたその時、店の奥から、誰かが走り出てきた。
「影和邇!お前がより求める御霊はここだ!」
守谷が、注連縄とお札らしき物を持って立っている。
その表情は、先程私と挨拶を交わしていた時のものとは別人のように険しい。
影和邇は、私に向かってくる動きを止めたかと思うと、くるりと方向転換をして、今度は守谷に狙いを定めた。
一直線に、鮫そのものの動きで、影和邇は守谷に襲い掛かる。
「守谷くん!」
後少しで、影和邇が守谷の影に喰らいつこうとする寸前、私が叫んだのとほぼ同時に、守谷が注連縄を自分の足元に放り投げ、その後ろからは石動が走り出てきた。
石動の手には、博物館においてありそうな巨大な太刀が握られている。
「闇にはぐれし八又の眷属よ、其が力自らを以って、八重垣の浬の果てへと還るが善い!」
守谷が呪文のような言葉を唱え、石動が、持っていた太刀を地面に突き立てる。
すると、注連縄が影和邇に重なった瞬間、その身体が全く動かなくなり、そして、注連縄の捩りの中に吸い込まれるようにして、消えてしまった。
「・・・・・・」
後には、一連の出来事に唖然となっている私自身と、溜息混じりに二人して達成感を感じている守谷と石動が残される。
一体、私の目の前で何が起こったのだろう。
影和邇が、私から守谷に狙いを変えて、守谷が何か呪文を唱え、石動が・・・。
「一条さん、大丈夫ですか?」
「済まなかったな、囮に使うような真似して」
二人が、ばつの悪そうな顔で手を差し伸べる中、私は理解できない事だらけの現状に、頭を抱えたまま道に座り込んでいた。