雄牛は、そのまがまがしい二本の角をかびと腐った臓物で飾り、鮮血で洗い清められた毛皮の内にマグマの潤滑によって不敵に律動する鋼の筋肉を包んでいた。俺がそのさまを見ていると、雄牛は徐々にその肉体を変化させ始めた。肉が溶け、腱がはちきれる。腰骨が引き絞られ、上体がゆっくりと起き上がって来る。大胸筋が膨張し、けがれたひづめが引き裂かれて両の手に三本の指が形成されると、今や巨大な人の形へその姿を変じた魔界の雄牛は、狂おしいほどの悪臭を鼻息として噴き出し、おもむろに口を開いた。
「・・・哀れで卑小な人間よ、我が声を聞け。我こそは極界七王が一、欺瞞の帝王ベリアルなり」
「・・・・・・・・・はぁ」
本物の悪魔だ。はじめて見た。驚きのあまり、俺もついあいまいなリアクションになる。
「今日ここへ来たのは他でもない。河合雄一よ。貴様の願いを一つ、叶えてやろう・・・。何でも構わん、永遠の命、究極の力、悪魔の秘儀の伝授・・・。何でも思うままだ」
その地獄の声は、俺の鼓膜を激しく揺さぶる。まるで言葉の一音ごとに、星を一つ砕いているかのようだ。
「さあ、早く願いを言え。我は見ての通りに気が短い」
俺は慌てふためいて、必死に願い事を探した。早く言わなければ、頭からもぐもぐと食べられかねない。何か願い事無いか、願い事、願い事・・・。
「あっ・・・、じゃあ」
「うむ、何だ。言ってみるが良い」
俺はそばにあったサイフから金ぴかの新五百円玉を取り出すと、激情に燃え立つ悪魔の手に乗せた。
「たばこ、買ってきてください」
外は雨降ってるし。自分で行くの面倒臭いし。さりとて、明日の目覚めの一本は欲しい。これだぜ!これこそが俺の今最大の願いだぜ!
「・・・マ、マイセンでいいか?」
「あっ、はいはい何でも。あ、傘はそこの傘立てにありますんで」
それを聞くと、悪魔はくるりと背を向けて玄関へ向かった。・・・悪魔のパシリ。はじめて見た。
 傘を取り、玄関のドアノブに手をかけたところで、悪魔はこちらを振り向き、嵐のごとく叫んだ。
「って、何でやねーん!」
それがツッコミ、しかもノリツッコミである事に気付くのに、俺はしばしの時を要した。
「こらボケ!悪魔にタバコ買いに行かす奴がどこにおるんじゃ!もうちょっとましな願い事、やったらんかい!」
怒られた!確かにそうかもしれない。口上とかから見て、どうやら偉い悪魔っぽいし。
「すすすすすいません!じゃあもうちょっと別のやつを」
「おう、いったれや」
俺はあたりを見回した。何か無いか、何か無いか・・・。
「あ、それじゃあ」
「うむ・・・。言ってみろ」
俺は戸棚を開けると、中からカレールーの箱を取り出した。
「カレー、作ってください」
「ルーだけじゃ駄目だろ。他の材料は?」
俺は冷蔵庫を指し示す。
「あ、それならその中に。肉とたまねぎと、かぼちゃがあります」
「何ぃ?カレーにかぼちゃなんか入れんのか。ゲテモンぽいなー」
「いや、これが中々うまいんすよ」
本当か?とかぶつくさ言いながらも、ベリアルはどこから出したのか振り振りのピンクのエプロンをつけ、料理をはじめた。・・・エプロン姿の悪魔。これもはじめて、見た。
 しかし何はともあれ助かった。材料買ったはいいけど、作るの面倒臭くて持て余してたんだよなあ。いやはや、いい悪魔も居たもんだ。
「って、違うやろがーい!」
ベリアルはまな板や鍋を鼻息でぶっとばすと、猛然と俺のほうへ向き直った。意外とお笑いに理解のある人、いや悪魔のようだ。
「くぉのガキ!殺すぞ、コラ!どこのアホンダラが悪魔にカレー、作らすっちゅうんじゃい!」
エプロンつけたまま怒鳴られても、いまいち迫力が出ない。
「タバコ買いに行く、カレー作る、んなモン人間でもできるわ!悪魔の魔力でやるような願いを言え、ちゅうとんじゃ!」
うーん、何てわがままな奴なんだ。だから悪魔なのか。・・・しかし、これはチャンスだ。悪魔の力なら、大抵の事はできるのだろう。・・・ならば!あの願いを叶える、絶好の機会だ!
「・・・それでは」
「ふむ、聞いてやろう」
俺は冷蔵庫の底をさらにまさぐると、一つ、ラップの包みを取りだし、ベリアルの前にうやうやしく捧げた。
「・・・このシイタケを、ぜんぶマツタケにかえてください!」
「・・・・・・・・・」
沈黙。どうやらこの願いは駄目らしい。
「じゃじゃじゃあ、この春雨をぜんぶフカヒレに!」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
なんだか雰囲気がシャレにならなくなって来た。悪魔は灼熱の瞳を地に落とし、その巨大な体躯は小刻みにわなわなと震えている。
「じゃじゃじゃじゃじゃじゃじゃあ、このプリンをぜんぶ、フォアグラに!」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
だめだ。殺される。次の瞬間には、俺の全身は世界の珍味に変えられて、おいしく召し上がられてしまうのだ。・・・ああ、あの焼肉バイキングの時に、肩ロースをもう一枚食っとけば良かった!しかし、そんな風に走馬灯と追いかけっこしている俺をよそに、悪魔はがっくり肩を落とすと、へなへなと床に座り込んでしまった。
「・・・なんで、俺がこんな奴の願い叶えたらなあかんねん・・・?」
ベリアルは見る目にもその存在を縮小していた。赤熱していた毛皮はもはや冷えて固まり、荒々しい隆起を見せた筋骨も先ほどまでの覇気を失っていた。俺が安堵を胸に立ち尽くしていると、悪魔はぽつり、と口を開いた。
「・・・兄ちゃん、酒あるか」


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