ベリアルの眼に光が戻っていた。狂気と、狡猾と、残虐なる悦楽とを秘めた翠玉の双眸が、今まさに絶望の扉を踏みしだき、その全存在を神の子等に刻み付けんとする暗闇の王に向けられていた。その肉は腐敗と不品行を彫刻した氷の結晶。だがその彫像は神が人に与えたもうた光を一切通す事無く、ただ底知れぬ悪意と、限りなき反抗の汚泥に淀んでいた。両のこめかみに発するその二本の角は人類の罪業を具現化したかのように醜くゆがみ、螺旋状に展開するその末端より、今まさに天に唾を吐き掛けんとしているようだった。青玉の眼光が鋭く空間を刺し貫いたそのとき、見る事すらも既に大罪であると思わせるそのあぎとが、人の言葉を紡ぎ出すのを俺は確かに聞いた。
「ベリアル。思い出すと、何だと言うのだ?」
ベリアルは動かない。冷酷と放棄を司る漆黒の瞳に射すくめられてしまったのか。氷の悪魔は俺に目を向けた。
「人間よ。なかなか楽しませてもらったぞ・・・。わたしが極界七王の盟主、恐怖の帝王ディアブロだ。ベリアルを迎えに来た。よもや、引きとめはすまいな?」
粘りつく氷の視線の前に、俺は動けなかった。ディアブロの魔力が、俺の魂を侵食し始める。その声は、ひどく近く、そして遠くからも響いて聞こえるようであった。
(・・・楽しませてくれた礼はさせてもらおう・・・。我が永遠の下僕として、混沌に君臨する玉座の警護を任そう。人間には、過ぎた栄誉だぞ・・・?)
「う・・・あああ」
意識が遠のく。その代わりに、俺の、魂の器に、流れ、込むのは・・・果てしない欲望と、邪悪な・・・・・・
「ンコタレぇ、待てやコラアアアアア!」
魔の回路が遮断される。俺の肉体は急速に常態を取り戻し、魂の束縛は消え去った。その雄叫びを上げたのは、他ならぬ欺瞞の魔獣・ベリアルであった。
「まだ罰ゲームはおわっとらん!そいつがワシに願いを言うまで、どうにもさせへんど!」
ベリアルの四肢が、その圧倒的な凶暴さと、破壊的な威厳を取り戻していく。抜け殻のようだったその皮膚には再び嗜虐の炎が燃え、筋骨は荘厳なまでの不節操さをまとっていた。
「ふ・・・。たかが人間一人に、何をそういきり立つ。極界七王ともあろう者が・・・、滑稽だな」
ディアブロの言葉が刺すように次元を凍りつかせる。ベリアルも負けじとうそぶいた。
「滑稽か・・・。へっ、おもろさやったらお前に負けるわ、このンコタレ!」
「ちっ・・・、貴様ぁ、また言ったな!」
「いうたらどないやンコタレ!惚れた女に泣かされてクソ漏らす!これ以上おもろい奴が、どこにおんねん?」
「んな・・・なんだとぉっ!」
「ンコタレ!ユンカース!えんがちょ切った〜!」
最強の悪魔同士の、小学生レベルの口喧嘩。はじめて見た。
「貴様ぁ・・・。ならば俺にも考えがあるぞ。あの時・・・、俺は見ていたんだぞ。小学三年の、あの夕日の教室でのことを・・・」
「・・・はッ!まさか!」
先ほどまではち切れんばかりに猛っていたベリアルの表情が、さっと青ざめる。
「ふっふふ、どうやら思い出したようだな。それとも、忘れるには余りにも甘美な記憶なのかな?」
ディアブロには尊大な視線で魔獣を圧すると、神をも恐れぬ苦々しい氷の指先をベリアルに向けた。
ベリアルの身体からは相変わらず狂暴な熱気が放散されていたが、その魂を凍てつかされたか、灼熱の獣はぴくりとも動けなくなっていた。
「おんどれ・・・!」
ベリアルの頬を、溶けた鋼鉄が汗となって滴り落ちた。
「あの日、いつもは授業が終わるとすぐに教室を飛び出して遊びに行くお前が、いつまでたっても教室を出ようとしない。他の生徒が全員帰った後・・・、俺は、隠れて貴様に事を見ていた!貴様はアンダリエルさんの机から、彼女のたて笛を取り出すと・・・」
「うわああああああああっ!」
なんだかよく分からない。ベリアルは混乱し、そのひづめが凍るのも構わずディアブロの口をふさいだ。
「違う!違うんや!アレはほら・・・あるやんか!アレやアレ!そう、調査や!アンダリエルがたて笛吹くのめちゃめちゃ上手いから、なんか笛に仕掛けがあるんかなあ、って!純粋に気になったんや!」
口をふさいでいたベリアルの手をどけると、ディアブロは嘲笑を噛み殺して続けた。
「なるほど・・・。ならばそれは相当熱心な調査だったようだな。何せ吹き口から指穴まで、なめしゃぶらなかったところは一つとしてなかったのだからなぁ!」
・・・・・・ベリアル、あんた面白いぜ!あんたの完全勝利だぜ!この時俺はそう確信したが、命の恩人に対して言う事じゃないので、俺の心の内一つに仕舞いこむ事にした。
「おんどれ・・・もう許さん!」
「ふ・・・ならばここで、決着をつけるか」
二人はもう、間合いに入っていた。ベリアルが、氷の悪魔の視線を振り払うように姿勢を低め、筋肉にその憤激を漲らせる。
「おんどれとは、いつかこうなるとは思うとったが・・・。意外と早かったのう」
「・・・いや」
ディアブロは両の腕をかざし、暗黒と冷気が織り成す冥界のマントを広げた。
「遅すぎたのさ・・・!」


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